【特別寄稿】五十嵐研三 百二年間の求道の姿―四つの句集の「あとがき」と第二句集「三瀬谷村」から 森田高司

『海原』No.64(2024/12/1発行)誌面より

特別寄稿

五十嵐研三 百二年間の求道の姿
―四つの句集の「あとがき」と第二句集「三瀬谷村」から 森田高司

  とぼとぼと歩き力の要る雪道 研三 (第一句集「北窪村」)

 右記の句は、五十嵐研三米寿の折りに、彼が自宅(三重県松阪市)としていた家の庭に林英男・和琴夫妻によって建立されている。この句に凝縮された、人間の日々の暮らしの積み重ねこそが、一人一人の値打ちを鍛え、形付けられていくその姿を、じっと見守っている五十嵐研三の揺るぎない姿がある。「力」とは、自分の暮らしを歩んでいく中で蓄えられる「力」であり、己の道を切り拓くためのものだ、と受け止めている。同時に、今日の地球における戦に明け暮れている人間に向けての指弾ではないか、という気がして猛省させられる句である。

一 はじめに

 最初に、「海程」における五十嵐研三の歩みを紹介したい。
 昭和四十九年(一九七四年)「海程」同人参加。昭和五十五年(一九八〇年)三重県松阪市で「海程」全国大会開催、実行委員となる。同年「海程」戦後俳句シリーズ二九「五十嵐研三句集」刊行。平成七年(一九九五年)第十九回「海程」海隆賞を受賞する。
 この間、経営していた三重県松阪市の共栄印刷株式会社において、奥山甲子男、森下草城子、宇多喜代子、堀葦男、安西篤など多くの作家の句集の制作・印刷を手がけ、その丁重な仕事ぶりから、多くの信頼を得た。
 次に、私と五十嵐研三との出会いについて述べたい。五十嵐研三は俳句世界への水先案内人であり、「海程」「海原」、金子兜太へとつなげてくれた人でもある。
 また、昭和六十二年(一九八七年)に私の第一句集「ありのまま」の発行で、共栄印刷株式会社にお世話になり、句集の跋文を五十嵐研三と村田治男に書いてもらっている。
 五十嵐研三は、俳句に関する組織づくりなどにも関わり、村田治男とともに、結社を超えた「三重県俳句集」を十年間発行。これが土台となって、「三重県俳句協会」が設立され、現在「年刊句集」が四十八号となって継続されている。
 五十嵐研三は、大正七年に福島県耶麻郡猪苗代町字北窪村で生まれている。彼は、百二年間の間に、第一句集「北窪村」(昭和四十二年)・第二句集「三瀬谷村」(平成五年)・第三句集「櫛田村」(平成十八年)・第四句集「中郷村」(平成三十年)の四つの句集を刊行し、合計で二千二百八十一句を残している。
 五十嵐研三は、生を受けた大地の息吹の中で暮らす人々、黙々と積み上げていく人の姿を、自分の血肉として、自分らしさを育んできている。その確かな閃光として、第二句集の「あとがき」を紹介したい。『村シリーズにこだわるのは私の日常生活のありよう、その原型に、昔の「村」のイメージから離れ得ない感じがするからだ』。五十嵐研三の原点、求道の始まりがここにある。

二 四つの句集の「あとがき」から
   透かし、見えてくる、求道の姿

 ◇第一句集「北窪村」―「あとがき」より

 あとがきの要点は、次のものである(以下同じ)。
・『戦争があり東京、名古屋、岐阜、そして現在の山村住いがあり、俳句を書き始めてから三十年近くたっている』
・『私がなかなか自分一人の句集をだせなかったのは、どうも私のものぐさが原因のようである。五十歳近くになって、
いやでも「死との対決」などといった問題にぶつからざるを得なくなってみると、せっかく書きためた俳句くらいは一本にまとめて残しておきたいと思うようになった』
・『私にとっては、俳句を書くことがいつの頃からか創作することであり、哲学することであり、美術することであり、音楽することであり、文学することであり、詩することであり、その他もろもろのことをするものであった。』
・『私は、ザラ紙を使用して句集をつくってみたいと思っていたので、この「北窪村」でそれを実行した。私の俳句は野暮ったく、しかも変な作品のようなので、それならザラ紙を背景にした方がふさわしいと思ったからだ』
 五十嵐研三は、三十年近く俳句に向き合い続け、五十歳近くに第一句集を発刊する。その間、彼にとって様々な変遷があり、だからこそ『死との対決』という決意表明が自ずから出てきたのであろう。
 句集を出すことは、大きな決断であり、自己の歩んできた道を振り返らざるを得ないものがあったのだろう。この姿は、一意専心していく姿であり、俳句を書くことは、創作であり、哲学であり、美術であり、音楽であり、文学であり、詩であり、と表明する。ところが彼は、その後に『その他もろもろのことをするものであった。』と書き記す。日々の暮らしの一日一日、その物、人、季節という中で命を繋いでいくものたち総てを、同一に包み込むあたたかい眼差しで、その景を自分の俳句として迎え入れ、書きあげていることが伝わってくる。

 ◇第二句集「三瀬谷村」―「あとがき」より

・『「三瀬谷村」という題名は「北窪村」刊行のときに決めてあった。あと何年か生かされての余裕を許されるなら、句集「櫛田村」、句集「中郷村」を予定している』
・『私の心の底には、常に、そのときどきに住んだこれらの、村と呼ばれていた頃の「村」のイメージが棲みついている。私は、いわばそうした「村」の亡霊みたいなものを追い続けながら、俳句作品を書いてきたのかもしれぬ』
 五十嵐研三は、自らの歩みを冷静に、客観的に傍らに置いて、俳句づくりを行ってきている。特に、日常生活の有り様から発する景こそが、自分がめざす俳句づくりの原点であると捉え、自身の心の襞に触れてくる「村」独特の匂い、空気感に気付きつつ、絶えずその景を意識することで一句を成立させてきたのである。
 また、彼は、『「村」の亡霊みたいなものを追い続けながら、俳句作品を書いてきたのかもしれぬ。』とも書いていることからも、「村」から見えてくるもの・見えにくいもの・見えないもの・これから生まれようとするもの、の存在をえぐり出そうと葛藤しつつ、己の内面をかき混ぜ咀嚼していったにちがいない、などと勝手に想像してしまうのである。だからこそ、五十嵐研三の立ち位置が、より鮮明に目の前に、浮かび上がってくるのだ。

 ◇第三句集「櫛田村」―「あとがき」より

・第一句集から第三句集まで六十九年間の作品が、一九九九句であること。
・『六十九年間もかかってたったこれしきの内容の句しか書け得なかった悔いやそのくやしさを悔やむ思いがつよいのだが、また角度を変えて考え直してみると、たったこれだけのことでも書け得たこと自体たいへんなことだったのかもしれぬと思うこともある。今はそう思うことでむしろ心安らかである』
 一九九九句であることに、思いを馳せ『これしきの内容しか書け得なかった』と吐露しながらも、俳句づくりに向き合い続けた、続けることができた自分の置かれた環境や出会った人たちに思いをめぐらせる姿がある。一途に、自分の表現世界の構築をめざした姿がみえてくる。
 『悔いやくやしさ』には、彼が俳句づくりに取り組む中で、村から生まれてくる一句の持つ奥深さや幅広さに気付き、ありのままを見つめ続けるなかで触発してくるものを丹念に拾いあげていく、表現者としての矜恃がみえてくる。
 同時に、見えている・見せられているものから、さらにその奥にある人間の体温や生の声までも句の中に位置づけようとしたのではないか。彼の「人間をみるとは」という自問の響きが押し寄せてくる。
 が、あとがきの最後に記されているように、『今は心安らかである』と結ばれており、様々な試行錯誤或いは、自己との葛藤などを経て益々、五十嵐研三は、自分自身の根を太くはりめぐらせて、一日一日の営みを土台にして巨木となっていったのがうかがえる。

 ◇第四句集「中郷村」―「あとがき」より

・『十五歳から就職し、母へ仕送りをする。・職場の温厚な人々と仕事をしていく中で、同じ福島県人の若き職人と出会う』
・『若き職人さんに「勉強を教えてやる」と声をかけられ、東京の夜間中学をめざすことになる。』
・『三年間勤めた会社を辞め、昭和十一年四月に上京する。本社転勤となる』
 十五歳で家族から離れ新潟で働くという大きな節目となった時期である。自分の周りの環境を自分の意思で決められない、変えられないという状況に置かれた時でもある。出会いのひとつひとつが、周りの大人たちの言動が、ズキズキと心身の中に入り込んできたに違いない。新たな事と出会っていくことで、次の自分の道筋が見えてきた「中郷村」なのである。
 だから、結びに『私の第二の「ふるさと」と言っていいのかもしれぬ。第四句集名にした所以でもある』と書いているのだ。

三 一句からの求道の姿―第二句集「三瀬谷村」

 四つの句集から「三瀬谷村」を取り上げたのは、次の二つのことからである。
・句集の期間が二十五年間(四十九歳〜七十四歳)。激動と充実の期間であること。
・前述の「あとがき」でも記したように、「村」と自分自身との関係性が、益々強く意識されている句集ではないか、という思いからである。
 第二句集「三瀬谷村」は、四百八十句、昭和四十二年(四十九歳)から平成四年(七十四歳)までの句が納められ、表紙絵・扉絵は、武馬竜生が描いている。

  以後を西日に適う首筋そろえて歩く
  もっと薪割ると弟も学帽脱ぐ

 四十九歳の句。一句目、以後という漠然とした表現から読み手を作品世界に引き込んでいく。「首筋そろえて」ということから、何か集まりがあり、その帰り道なのだろうか。「適う」が、句の核となって句の全景をだんだんと明らかにし、想起させていく句である。
 だからこそ、二句目の「もっと」が、句全体に広がりをもたせるなかで、「も」と共鳴してリズムや切れ字的な効果を派生させている。

  よくみえる切株に置く父の飯

 五十二歳の句。上五がひらがな表記で始まる。ひらがなの持つ語感や質感を巧みにとらえている。作者が、きょろきょろ辺りを見回す姿が、ひらがなの読み方しだいで、様々に浮かび上がってくる。そして、どこに置くのか迷ったりしながら、大事な預かりもの、また作った人のことや父のことを頭に過ぎりながら、「この切株だ」と安堵して、置いたのであろう。睦まじい家族の姿もみえてくる。

  眼鏡拭くあいだも見ゆる曼珠沙華
  ガラスにすぐにうつりばんざいの手もくらし

 六十一歳の句。「あいだも見ゆる」のわずかな間、それも動作を伴っている間の景である。一瞬逃さずに捉えた仲秋の景である。
 二句目も一瞬か。そして、「ばんざい」のさりげない表記、集まった人の高く挙げられた手が「くらし」。やはり、ひらがなの持つ本質的な語感と質感がある。また、「くらし」を読み手がどう受け取り、句の全体をどう立ち上がらせるのかが問われている句でもある。

  味方のように個室の壁の白濁色
  味方さながら白菜断面渦巻く夜

 一句目六十一歳、二句目七十二歳の句。「味方」からの句である。味方がいるということは、どこかに敵がいるのかもしれない。「個室の壁」が白濁している。病室であればこれまで入院していた人の様々な足跡として自分自身の内に引き寄せ、見つめたのではないか。「白菜断面」が渦巻くとは、それも夜である。一瞬にして市井の暮らしそのものが、立ち上がってきたようだ。心象風景が白に触発されて、彼の内面がざらりと動いた句のような気がしてならない。

  寒鯉の腹見えざるはみせぬなり
  見えるところをみよとうごかぬ寒の鯉

 六十三歳・六十九歳の句。
二つの句も、ひらがな表記が躍動している。「見えざる」「見えるところ」と「みせぬ」「みよ」の使い分けが妙味である。特に、二句目は、ひらがなであることで、誰に向かって言っているのか、禅問答の様をおびて迫ってくる句である。

  八月六日九日十五日共残業す
  八月六日の真昼うごかぬあらゆる墓
  ただいま空っぽ原爆記念館前のバス

 六十七歳(一句目)・七十一歳の句。「共残業」「あらゆる墓」「空っぽ」が強烈に迫ってくる。忘れてはならぬことは、ならぬのだと。うごかぬあらゆる墓のためにも。

  枯野に杭を打つことだけに雇わるる
  枯野歩くに水平に棒持ち直す

 七十歳・七十二歳の句。「枯野」とは、何ぞや。「杭」「棒」とは。一句目の「だけに」が胸に突き刺さる思いがするのは、私だけだろうか。「持ち直す」それも「水平」だ。日常の生活のなかで、染みついてしまう、見えないものと向き合っているからこそ、自分は自分でありたいという本心が伝わって
くる句だ。

  戦艦ゆくときもうごかぬ青野に居る
  共通の椅子に腰掛け青野に居る
  青野へ坐り握り飯ほか椅子に載す

 七十一歳・七十二歳・七十三歳の句。「青野」とは、五十嵐研三の心のなかで、確固たる居場所をしめる原風景なのであろう。だとしたら、戦艦に対して「うごかぬ」と表現し、自分自身の態度を表明しているのだ。「共通の椅子」―「共通」とは。誰もが老若男女皆が使う、何でもない椅子だが、必要とされる大事な椅子。椅子は何者か。
 三句目、上天気のなか、大自然の山裾での作業の姿であり、生き生きと活気ある表情が迫ってくる句である。

  刈田の陰を子はとび父はまたまたぐ
  畦走る火の根死なざる兵のように
  刈田の同じ畦ゆく一人ひとりかな
  すぐそこの凶作田から暮れはじむ
  幾重にもわが村を堰く冬田畦

 五十五歳・六十歳・六十九歳・七十歳・七十二歳の句。
 刈田や畦など米作りに関わる句は、五十嵐研三が、目の当たりにしてきた、体に染み込んでしまった村の原風景から起因している。彼の目の前に現れる事象は、彼の視座に入り、心身を通過することで咀嚼されて俳句という表現形式になっていく。が、その通過していく際に、彼独特の感性の棘がピクピクと刺激し合っている。これが、句に分かりやすい景とともに、その背後に存在する人間の暮らしにまで辿りつかせるのだ。そんなふうにして、再び一句となってあらわれているのだと受け止めている。
 だとすれば、二句目の「火の根」が「死なざる兵」と表現されることこそが、五十嵐研三たる所以であり、確固たる日々の営みがあってこそ、人であり暮らしであり、俳句が生まれてくる源泉なのだと黙示されているような気がしてならないのだ。
 また、「火の根」は、風を味方につけて自由自在に動き、その端の火力の勢いも多様だ。その様はまるで、人間の生き様のようで、その一つ一つの根が意思を持っているかのようでもある。正しく「死なざる兵」であろう。
 四句目。農村のよく見かける風景である。が、彼は、「すぐそこの」の上五を大事にしたかったのではないか。有り触れた、見慣れてしまった景のなかで、何か妙な違和感や疑問を常々抱いていたのだろうか。当然のようにして、一日の仕事を終え安堵のなかで暮れはじめる時、そのことが俳句表現となって浮かび上がってきたのではないだろうか。「すぐ」が極めて日常の生活感覚であり、村や米づくりに関わる人に寄り添う句となっている。

  空母去らねば植田の畦に烏置く
  紅葉山からやむなくわれら空母指す
  障子閉ざさば空母もただにゆくほかなし
  空母おるとき足上げ冬田畦またぐ
  顎引いて睡り空母を消す嬰児

 六十歳・六十四歳・六十五歳(二句)・六十六歳の句。
 「空母」に関する五句。空母とは、五十嵐研三にとって敵なのか味方なのか。戦を象徴するものとして、巨大で多目的で戦う時の絶対的な存在となるものが「空母」。ひょっとすると、絶えず彼の意識の対極にあるものとして「空母」があったのではないか。「要らないよ」の声が聞こえてくる。
 二句目。「やむなくわれら」この中七は、やむなくとわれらの二つの文節からなり、自分の意思ではどうにもならない様と紅葉山を愛でている「われら」がそうせざるを得ない様の内面の波風がみえる。「空母」、大きな力のあるものに対峙する時、日常の暮らしは、ゆがみを生じつつ、のしかかってくる。だからこそ、日々の暮らしのなかにある人間の関係の豊かさこそが、対峙するものと出会った時に、生きてくるのだという示唆を感じさせる句だ。
 五句目。この句では、「嬰児」に注目したい。睡っている、母に抱かれ熟睡する微笑ましい姿。周りの人達も和やか。新しい命が誕生し、家族みんなで第一歩を踏み出していこうという風景が、「空母を消す」のである。人間の原点は、脈々と続いてきた命のつながりであり、そこから生まれる様々な感情の蓄積でもあろう。改めて「消す」ことができるのは、それを生み出した人間であり、自分達しかいないのだということを再確認させられる句である。

四 求道し続けた五十嵐研三の心底にふれる

 五十嵐研三と俳句との出会いは、昭和十三年頃嶋田青峰の「土上」であり、当時最も前衛的な俳誌のひとつに投句することで始まっている。
 三十代で日野草城に認められて、「自分は自分の句を書きなさい」と背中を押され「青玄」同人となり、昭和二十七年(一九五二年)第三回「青玄」賞を受賞している。
 「北窪村」から、三句を取り上げ心底にふれてみたい。

  首のあたりでばんざいの声を小さくする
  木の間ゆく霧ふかければ木を掴み
  飯食べてから木の家の木が冷える

 一句目。彼の三弟は、戦争で亡くなっている。きっと様々な思いと出来事あり、やむなくそうせざるを得ないことにも直面したことであろう。五十嵐研三の奥底には、戦争という風に吹き付けられた、逆むけのようなものがあったのだろう。
 「首のあたりで」は、「命のあたりで」とみえてくる。自分で考え判断するための脳を支える首。そこで「声を小さくする」、自分が自分であることを確かめるために。彼は、はっきりと戦争に対して自分の立場を表明しているのだ。
 二句目。霧とは彼の心の中かもしれない。ぼやっとしてみえる、目を凝らしてもみえにくい、かれはそんな歩みに出会っているのかもしれない。霧という実景は、心理状況と重なっていくのであろう。だから、「木を掴み」であり、木は人間なのだ。
 三句目。そのままの何処にでもある景である。が、「木の家」「木が冷える」のリフレインの効果。家は生活の基礎であり、木がそうなってくれている。飯を食べる前は、自分自身も冷たかったのである。飯を食べるという行為が、いかに多くのことで成り立っているのか、支えられているのか。「そうさせてくれているものたち」への敬愛、洞察力に瞠目せざるを得ない句だ。

五 おわりに

 五十嵐研三は、令和三年三月十一日に百二歳で鬼籍に入った。彼は、その直前まで、「伊勢俳談会」などへ投句を続け、飽くなき俳句づくりに対する求道の姿を顕示し続けた。
 「村」を出発点として自身の俳句を開拓し、彼自身の村づくりをめざした姿であったと受け止めたい。深謝。辞世の句を紹介し最後のことばとしたい。

  塀を越えひそかに終わろうさくらの夜 研三

【参考資料】
・「北窪村」五十嵐研三第一句集 青玄俳句会
・「三瀬谷村」五十嵐研三第二句集 橋の会
・「櫛田村」五十嵐研三第三句集 北窪文庫
・「中郷村」五十嵐研三第四句集 北窪文庫
・五十嵐研三句集 戦後俳句作家シリーズ二―十九 「海程」戦後俳句の会
・「ていすい」合同句集二十六集 松阪市 「ていすい」俳句会

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